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【30】Poland:ポーランドで見つけたCOOL JAPAN!

『過去を心に刻む』

"アウシュヴィッツ"

 

それはいつか行ってみたい、

自分の目で見なくてはならない場所だと思っていました。

 

 

子供の頃に読んだ「アンネの日記」、

昔母に連れられて見た「コルチャック先生」の映画、

そこに出てきた恐ろしい場所。。

 

 

今回の旅路でも

オランダでアンネハウスに立ち寄り、

イスラエルでホロコーストMuseumに行って

心の準備はしてきたつもりです。

 

 

そして、ついにアウシュビッツへ。

 

 

 

 

アウシュビッツ.jpg

 

 

アウシュビッツは

ポーランドのクラクフという町から電車で1時間半ほど。

 

 

もともとオシフィエンチムという地名だったところを

ドイツ語でアウシュビッツと呼ばれていたのです。

 

今はまた元の地名に戻っています。

 

 

 

ここはみなさんご存知のように、

第二次世界対戦中に

ナチス・ドイツが国家をあげて

人種差別に取り組み

150万人以上が虐殺された強制収容所がある場所。

 

 

 

当時、第一次世界大戦に敗退し、

激しい経済恐慌に陥っていたドイツが経済圏を広げるために

ソ連への領地拡大をも視野に入れた

東ヨーロッパの植民地化を推し進め、

またアーリア人以外を汚いモノとみなし、

彼らを自分たちの土地から取り除く政策を

国家として取っていたのです。

 

 

 

 

MAP.jpg

 

 

28に及ぶ国の様々な地域から、

人々はここに運ばれてきました。

  

 

 

 

ビルケナウ1.jpg

 

 

 

遠い国からの場合は、アウシュビッツに到着するまでに

10日以上の日数がかかり

その間に栄養失調や窒息死する人もいたようです。

 

 

 

 ナチス・ドイツが汚いモノとして

強制収容所に連れてきたのは

ユダヤ人だけではなく、政治犯、障がい者(精神・身体)、

同性愛者などでした。

 

 

彼らはいったんは労働者として

ここへ連れて来られ、使われたのです。

 

 

 

 

アウシュビッツ2.jpg 

 

 第一強制収容所の入り口にある

"ARBEIT MACHT FREI"の文字は

「働けば自由になる」

ということを意味していて、

 労働者のマインドをコントロールしていたそうです。

 

 

 

 

アウシュビッツ9.jpg

 

 

 

 

一見ただのヨーロッパの街並みとも見えてしまうこの建物、

これらは第一強制収容所の建物なんです。

 

 

 

 

アウシュビッツ3.jpgアウシュビッツ5.jpg

 

 

建物の周りにはこれでもかという程、

電線で囲まれていて、当時は電流が流れていたそうです。

 

 

 

また、建物の中にはズラリと3段ベッドが並び、

1つの寝床に5人が寝かされていたといいます。

 

 

 

 

アウシュビッツ4.jpg

 

 

 

そして、労働力として使えなくなると

彼らはガス室へと送りこまれ、命を失いました。

 

 

 

 

また、労働力にならない女性や子供、老人は

強制収容所に入ることもなく

すぐにガス室へ連れていかれていたのです。

 

 

 

 

彼らの所有物ならびにお金になるもの

(髪の毛、金歯などまで)全てが没収されました。

 

 

その中で使いものにならなかったものが

今でも博物館に残っています。

 

 

 

 

アウシュビッツ6.jpg

アウシュビッツ7.jpg

アウシュビッツ8.jpg

 

 

 

 

 

今回私たちは、このアウシュヴィッツを

日本人ガイドの中谷さんに案内してもらいました。

 

中谷さんは10年以上現地でガイドをされている方です。

 

 

 

中谷さんと色々とお話をさせて頂いて感じたのは

 

 

『まずは歴史を知ることから』

 

 

 

何かに対して意見を述べようとする際に

事実を知らないことには何も言えない。

 

 

 

人間のポジティブな可能性を知ることも大切だけど、

ネガティブなことを知っておくことも必要です。

 

 

アーリア人でないというだけで殺された過去の事実。

 

 

たったの65年前の出来事です。

 

そして、今人々が気軽に訪れることのできる

その場所で、その悲劇は起こっていたのです。

 

 

 

また、この悲劇を知る中で

「どうにかできなかったのか?」

「誰も反発しなかったのか??」

という疑問が湧きました。

 

 

それに対して、ハッとさせられたのが

中谷さんのこの言葉。

 

 

『人々は賛同者でも、反対者でもなく、

大抵の人が傍観者だった・・・』

 

 

 

国家レベルの話ですが、

要はいじめと同じようなものです。

 

被害者を守ろうとすれば、自分にも害が加わる、、、

 

であれば、そっとしておこう。。。

 

 

 

 

自分がナチス・ドイツ側、捕虜側

どちらにいたとしても

傍観者ではない行動がとれたでしょうか???

 

 

 

 

 

それから、旅をしている中で

とても気になっていることがありました。

 

 

『なぜ、ドイツはあんなにも悲惨なことをしたのに

現代社会において周辺諸国と

仲良くできているのか・・・』

 

 

 

 

今回せっかくなので戦後ドイツの取った道筋について

調べてみました。

 

 

 

戦争責任に向き合うドイツには

国内の至るところに

戦争を忘れないための記念碑やシンボルの場所があるそうです。

 

 

 

また、戦後歩んだ道としては

まず戦後まもない1945年に開かれた

ニュルンベルク裁判。

 

 

これはドイツの戦争犯罪を裁く、国際軍事裁判で

ドイツ人の間に

「人道に対する罪」という概念ができたそう。

 

 

 

それから、1963年~65年に行われた

アウシュヴィッツ裁判。

 

 

これは強制収容所の幹部たちを

ドイツ人自らの手で裁いたもので、

この裁判によって、強制収容所での出来事が明らかになり

それに衝撃を受けたドイツの一般市民が

自分たちの責任について考えだすようになったといいます。

 

 

 

続いて、1968年に行われた学生運動。

 

 

高校生たちが自分の街にかつて住んでいたユダヤ人の運命をたどったり、

それから当時のナチスの有力者の過去を問い直すような動きが生まれたり。

 

 

 

そして、1985年の敗戦40周年記念日に

フォン・ヴァイツゼッカー大統領が連邦議会で行なった演説。

 

 

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になります」

と語った彼の演説は

それまで敗戦の日の8/8を

ドイツが敗北した屈辱の日として悔やむのか、

それともナチスから解放された喜ぶべき日なのかを

悩んでいた市民に対して、

"ナチスから解放された日である"と言って

市民運動の人たちと同じような考え方をはっきり宣言したのです。

 

 

 

そしてそれ以降は

「過去を心に刻む」というようなことが

在のドイツ人のIdentityになりつつあるのだそうです。

 

 

 

過去を心に刻む

 

 


今生きているドイツ人たちにはナチスの直接的な責任はないけれども、

そのドイツ人の名において行なわれた犯罪の過去を、

一人ひとりのドイツ人が心に刻んで、

それを思い起こし、それから教訓を汲み取って未来につなげるという意味。

 

 

 

 

敗戦60周年の2005年には

当時のシュレダー大統領が、被害者の国際委員会の式典に招かれ、

そこで「過去を心に刻んでいる」という内容の演説をしたそうです。

 


 

 

 

 

 

『過去を心に刻む』

 

 

 

 

 

 

過去を心に刻むために、

まずは歴史を知るために、

ドイツ人でなくても、同じ人である私たちは

この場所を訪れるべきなんだと思います。

 

 

 

また、世界の過去に目を向けることも大事ですが、

私はもっと日本の過去について知らなきゃならないな

という危機感を今回覚えたのでした。

 

2010.12.10 Friday | 03:35 | comments(4) | trackbacks(0) | by RISA

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